それから三日後、<空の鏡>の片隅で全裸のオペリオが発見された。外傷はなかったが、記憶に一部混乱が見られたそうだ。
その後「あの世を(二回も)見たオペラ歌手」として復帰し、幼なじみと仲良く暮らしているらしい。
ニーナは、今回のことを報告するために仲間たちのところへ戻った。
オルディネールもまた、いずこかへ姿を消した。アルカディアへ、帰ったのだろうか。それとも──
カゴルマの街は、混乱していた。過半数の建物が倒壊。大量に不足している食料。領主の不在。未だ耐えない暴力──
「この街は、どうなっていくのかしらね……」
空から見下ろしているミシェル。彼女の口の両端が、少し上がる。
「私が、招いたことか……」
森──カゴルマの南東の森。ロゼが消えた森。そこに、ミシェルの姿があった。ティンベルの遺体と共に。
『パンサーズ・ファング』──装着者を獣の姿に変える金色の牙。ティンベルが、貞操と引き換えにD・Rから譲り受けた生きた道具。その牙が銀色に変わっていることに、ミシェルは気がついた。
「どういうこと……?」
『パンサーズ・ファング』については、ミシェルもある程度の知識は持っていた。不可解な点も多い、呪われたアイテム。だが──
「色が変わるなんて話、聞いたことがないわ……」
持ち主が死んだことと、何か関係があるのだろうか。
ミシェルは何かを振り払うように首を振った。今は考えるときではない。今は悲しむときだ。
なのに──口元に、笑みが浮かんでしまう。
「ねえ、姉さん」
ティンベルを埋めながら、ミシェルは語りかける。
「姉さんのせいで、死ねなかったわ、私」
あれほどまでに感じていた死の誘惑。それが消えていた。
「死への魅力を感じなくなったの」
死ぬことに飽きた、というのが一番近いかもしれない。生きよう、とも思わないが。
「死なないようにする。死にたくなるまで」
我ながら変な表現だ。ミシェルは、また笑った。
ティンベルが、少しずつ土に埋もれていく。その右手は、まだ自らの心臓をつかんだままだ。顔も、血で汚れたまま。
「墓標は立てないわ。花も添えない。それから──」
姉の埋葬をしながら、自分は絶対泣くと思っていた。まさか笑うとは、夢にも思わなかった。
「とりあえず生きてみる。また、人の肉を食らいながら……」
ミシェルは姉の墓に背を向けた。その背中に、天使を思わせる白い翼が現れる。
「また会えたらいいわね、姉さん。どこで会えるかは、分からないけれど」
そして、ミシェルは宙に舞った──
扉を開けると、そこに彼女がいた。窓辺に腰掛けて、空を見上げている。
「レイナ……目、覚めたのか?」
問いかける男の方に、彼女はゆっくりと、その澄んだ瞳を向けた。
「ルーン──終わったの?」
「終わったって……何が?」
「私と、レミーラと──」
言いかけてふと口をつぐむ。そして再び視線を窓の外へ。
「ねえ、これ、何?」
言いながら、近づいたルーンの目の前にぐっと突き出された右手。握られているのは──
「何って……水晶だま」
「中身は、何?」
「中身は……その……オレの装備品とか……」
「ふぅん……」
相変わらず視線は窓の外である。
「あたしには、違うものが見えるんだけど」
「そっ……そお?」
「レミーラ」
「気のせいだろ。ほら、レミーラのこと、ずーっと考えこん──」
「ルーン」
キッと振り返り、目を合わす。
「あたしも、一度は宮廷封印士を志した女よ。これくらいのもの……」
「……………」
「レミーラでしょ? 妹でしょ? ねえ、ねえってば」
「……やれやれ、君に隠し事はできんな」
ルーンは微笑みを浮かべながら、空っぽのベッドに腰をかけた。
「その通り。レミーラだよ。ただ、ちょっと深い傷を負っちゃってね。ここの病院じゃ薬がないから、大病院のベッドが空くまで病状が悪化しないように──」
「『魔法感知』かけたの」
「………!」
「『物質封印』がかかってたわ。どういうこと?」
「…………」
「死んでるんでしょ? レミーラ。何で? 何があったの? ねえ、教えてよ、ルーン、ねえ……」
「…………」
「ルーン、ねえ! ねえってば!」
彼の肩にすがりつき、激しく揺さぶる。
「ルーン!」
「……………うん……」
「ねえ……ルーン……あたしの……あたしのたったひとりの家族なのよ……。お父さんもお母さんもあの時に……あっ……」
ふと顔を上げる。
「……ごめん」
「いいよ。別に……」
あの日──その原因をつくったのは、他でもないルーン自身である。
「うん……」
「分かった、言うよ。ただ……」
真っすぐ、レイナの瞳を見つめる。
「レイナ──君には相当、つらい話になると思う。シャレにならないくらいに」
「それでもいい。教えて」
「ああ……。ただ、始めに言っておく。手は、ないわけじゃないんだ。レミーラは生き返らせることだってできるはずだ」
「えっ?」
「オレひとりじゃとても無理だ。お前の助けがいる。だからレイナ」
フッと笑みを浮かべる。
「希望を捨てるな。オレは、いつもお前の横にいてやるからな」
「うん……」
ルーンは語り出した。今回の旅の目的を。どうやってレミーラと再会し、どうやってレイナと再会したのかを。そしてレミーラの──
翌朝。街の市場に揃いのマントに身を包んだふたりの姿があった。長旅になるのだろうか、様々な物を買い込んでいる。
ルーンは、細長い包みを背負っていた。
レイナの胸には、首から下げた小さな革袋が揺れていた。
その中のもっと小さな水晶球の中で、レミーラは深い深い眠りについている。
いつか、目覚めるときのために──
気が狂いそうな痛みに、クロヌシは声にならない声を上げた。
まるで目が頭の横についているような奇妙な感覚。右手は、肘から下の感覚が全くない。別の生き物が全身の内側をはい回っているような感触。嘔吐感。
「これが『魔族の種』の副作用か……」
これほどのものとは、正直思っていなかった。体はまだ人間のままだ。手も足もしっかりついているし、目だってあるべき場所にある。だが、確実に自分でない何かが体を蝕み始めている。
クロヌシは皆と別れ、旅を続けていた。だが、それは当てのない旅……。
それからしばらくして、クロヌシは辺境の地にある塔にこもるようになった。
シズマ=オオトモ=ラ=ソウリンは困惑していた。
神々の戦いから逃れるため、地上に移り住んだ『月の民』たち。シズマとその母──トキオもまた、地上に逃れていた。
何とかという街のはずれに、仮の家を建てて生活している。他の『月の民』たちと共に。
それにしても、地上とは変なところだ。
数カ月前、ミュスカディと名乗る女性が、母の病を治しに訪ねてきた。父に、頼まれたという。
そして、今度はマントを羽織った男女の二人組が、お金を渡しにきてくれた。自分と母が生活していくには十分な額ある。これも、父に頼まれたそうだ。
一体、父は何をしていたのだろう。今、どこにいるのだろう。
マントの男は、多くは語ってくれなかった。
その後、シズマは塔に住む『鬼』の話を聞き、これを討伐する旅に出ることになる。だがそれは、もう少し先の話だ。
ガルフ、行方不明──
やさしい時間が、静かに流れていた。
「十六夜」の夜──
ラズリは、ラピスの森に帰って来ていた。カレンと共に。
姉と兄と母の葬儀をし、祖父の墓参りをし、二日が過ぎ、三日が過ぎた。
みんなで食事をし、話をし、眠って──
「半月」の夜──
<空の鏡>の『扉』が閉じた日。カレンが眠るように目を閉じ、二度と開けなかった日。
それから二日、雨が降り続いた。
森で深呼吸して、泉で泳いで、空を見上げて……。
「幸せに、なりたかった……」
今まで幸せだった。でも……今、幸せなのかな……。
「幸せに、なりたかったな……」
あたし、不幸なのかな……。あたしは……。
「幸せになりたかったよぉ……」
静かに歌を唄って過ごした日もあった。
ここにあった、ここにある全てを、あたしは忘れない。
歌は、風に乗って草原を渡っていく──
なんだか、変な感じだ。
「死ぬのが分かってて、それをじーっと待ってる……。……普通、体験できないことだよね」
ナイフをもてあそびながら、ラズリは楽しげに言った。無理しているのが、ばればれだが。
「ラズリ……」
ガーネットは、かける言葉がない。トパーズはもう眠ってしまった──何も知らずに。
「こんなに元気なのに、明日は死んじゃうんだね……」
ラズリはぐいっと髪をつかむと──ばっさり、切り落とした。瑠璃色の髪が数本、宙に舞う。
「これ……遺髪っていうんだっけ? ……持ってて。あたしがいた、証しだから」
「お姉様ぁ……」
ライムが泣き崩れる。彼女はここ数日、毎日泣いていた。
「大丈夫、だから」
エメラルド色の瞳が揺れる。
「こわいけど……こわくないよ。……会えるかも、しれないから……」
細い細い『月』が浮かぶ夜。
その身体を小さな蟲に変え、ラズリは死んだ───
