カツン……カツン……
人気のない礼拝堂に堅い足音が響く。
入ってきたのは、さして信仰心が篤いとも思えない若い女性。
短く赤い髪にはシャギーが入っており、気の強そうな目と活動的な服装が性格を示している。
中ほどまで来たところで、彼女は女神の像を見上げた。
その像の顔は、彼女がよく知っている顔で。
見上げる度に口の端が緩んでしまう。
それから……祈るでもなく、懺悔するでもなく……彼女はただ、見上げていた。
かつての、世界の終わりかと思われるような混乱の後、彼女――サリースはここイシュタルに戻っていた。
姉夫婦を助けながら、街の復興を手伝いつつ、暇があるとよくここに来ていた。
混乱の最中に目覚めた、新しい……いや、太古の神を崇める場所に。
……街、大分元に戻ったよ……。もう、あたしが駆け回らなくてもいいくらいには、さ
友達にでも話し掛けるように。
そう心の中でつぶやく。
旅の最中に知った事実と、手に入れた新たな力。
それは万能には程遠かったけれど、決して無力でもなくて。
治安も、大分落ち着いたし……街の機能も、結構……
そうそう、お義兄さんがやっと営業を再開できるって言ってたっけ
パン屋を営んでいた姉夫婦は、あの混乱の後、赤字覚悟の値段でパンを配給していた。
困った時はお互い様、生き抜かないと話にならない。
そんなことを言って笑っていた二人がまぶしくて。
材料集めや行列整理にサリースも駆け回った。
その傍ら、治安維持のための活動も行って……。
でも。
もう、することもなくなっちゃった……
落ち着いてくると、あたしができることってなくなるのよね〜……
まさか、昔みたいな真似はできないし
生きるためには何でもしたあの頃と、そこから逃げ出した自分と。
全てを生まれのせいにする気はないけれど。
……なんだか、ずっと逃げてばかりだった気がするな……
燃え上がる炎とともに思い出す記憶。
鈍く重い肉の感触と、生暖かい血の匂い。
ゆっくりと広がっていく炎。
死人のような姉の顔と、握った手のぬくもり。
姉の手を引いて逃げた夜道。
それらを肯定してしまう、今の姉の笑顔。
サラ……自分と重ねた太古の人と同じ名前を持つ、血のつながらない家族。
あるいは弔いでもあったのかも知れないけれど。
けれど。
幸せになって欲しかった。
ただ、それだけで。
姉のためなら何でもできた。
でも。
今の姉にはもう、自分は必要なくて。
……今度は、姉さんから逃げるの、な〜んてね
誰かのためなら何でもできそうな自分と。
自分のためには何もできなさそうな自分がいて。
自分のため。
それがモチベーションになるほどの意味を見出せなくて。
やっぱり、逃げてるのかな……
諦めていたこと。
自分に授かった生命があると聞いて感じた……恐怖。
幸せに、なってしまうかも知れない。
その思いが針となって自分を貫いた。
資格があるかわからない。
幸せの意味がわからない。
幸せの価値がわからない。
何より・・・幸せな自分を想像できない。
希望を抱いたことで生まれた絶望。
あるいは、わかることができたかも知れないけれど。
そんな未来が信じられなくて。
自らの決断で捨て去った。
……結局、勝手、だよね……
やりたいようにやってるわけだし、それでこうなんだしさ……
多分全ては、何より自分を信じられないことから。
自分の居場所なんて見つけられないから。
だから……また、旅に出ようかな、って
け〜っきょく、逃げてるようなもんなんだけど、さ
でもさ……旅、いいことばっかじゃなかったけど……
そんなに悪くもなかったから、さ
巻込まれて、押しやられて、それでも駆け抜けたあの日々。
決して楽な道のりではなかったけれど。
それでも。
今までのどんな瞬間よりも、充実していたから。
痛くてもつらくても悲しくても走り抜けられた。
今度は……一人だけど、ね
意外だけど……一人旅なんて初めてなんだよね
気がつけばいつもそこに誰かがいた。
例えばいつも優しくしてくれた姉。
そして何より、あの旅の苦労を分かち合った者たち。
そんな意識があったかどうかすら定かではない関係だったけど。
ましてや、楽しさを分かち合ったかなど……。
もしかしたら、自分の思い込みかも知れない。
きっと面と向かって聞いたら、否定されそうだし。
それでも。
それでも、あたしたち……
そこから先は、心の中ですらつぶやけない。
自信がない? それより何より、照れくさい言葉。
だからそれを飲み込んで、ニッと笑う。
ま、いいよね、そんなこと……
それじゃ、そろそろ、行くね
くるりときびすを返して外へと向かう。
いつか全てを忘れてしまうとしても。
それが無意味だったなんて思いたくない。
無意味になんかさせない。
逃げて、逃げて、逃げ抜いて、これ以上逃げられないその先に。
そうできる自分がいるような気がして。
そうしてゆっくりと歩き出す。
いつかへと向かう旅路へと。


